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「第1回平田玉蘊茶会」リポート
江戸時代、尾道より出た画家・平田玉蘊を偲ぶお茶会
6月下旬、尾道の文化財、爽賴軒(そうらいけん)庭園の茶室明喜庵(みょうきあん)に於いて、江戸時代に活躍した女性画家平田玉蘊(ひらたぎょくうん)を偲ぶお茶会が、平田玉蘊顕彰会の主催のもと開催されました。当日は雨が心配されましたが天候にも恵まれ、平谷祐宏尾道市長や招待者をはじめ、一般のお客様、70名の方がご参加下さいました。

爽賴軒は、江戸時代の尾道の豪商、加登灰屋橋本吉兵衛の別荘として建てられました。その中の茶室「明喜庵」は、利休の最高傑作と呼ばれる「待庵」を忠実に写した茶室です。改修工事の際に「明喜庵」と書かれた向板、窓枠が発見され、江戸後期に建造された事が明らかになりました。現在は整備され、扁額「明喜庵」は裏千家家元坐忘斎宗匠によるものです。

平田玉蘊(1787-1855)
北前船の寄港で黄金時代を迎えた尾道を代表する画家として活躍しました。1787年、木綿問屋福岡屋に生まれ、妹の玉葆と共に絵の才能に恵まれました。文人菅茶山、頼山陽とも交流し、山陽とは一時結婚の約束までした仲だったと言われています。
左:平田玉蘊筆「軍鶏図」江戸時代 浄土寺蔵

頼山陽(1780-1832)
江戸時代後期の歴史家、漢詩人。著書「日本外史」は当時の尊王攘夷運動に大きな影響を与えました。山陽は尾道に訪れた際、橋本家へ度々立ち寄り、そこに集まる文化人たちと詩や書を論じ合ったのでした。山陽にとって尾道はとても大切な場所だったと言われています。
左:頼山陽像 千光寺公園


外腰掛 外腰掛から見た明喜庵(待合に使用) 明喜庵内部

本席 六畳の間
本席は六畳間で、一席七~八名様に入って頂きました。
床には頼山陽の詩の横幅が、待合には玉蘊の絵が掛けられました。江戸時代のお道具を中心にして、尾道港の黄金時代を感じさせてくれる取り合せが魅力でした。玉蘊、山陽、明喜庵の事など話題に花が咲き、皆さまにはゆったりとした時間を過ごして頂きました。

主菓子は舟形の練切でした。船の上にふたつの人物が乗っています。
山陽と玉蘊が舟遊びをしたという物語から造られたお菓子で、お席では話題となりました。菓子器は古染付でした。

関連行事として
浄土宗西山禅林寺派日輪山持光寺は、福岡屋(平田家)代々の墓が並んでいます。「ええ門は福善寺、かたい門は持光寺」との童歌で親しまれた石造りの山門が有名です。没後155年を経て、玉蘊の功績を偲ぶ尾道の人々によって玉蘊忌が営まれる六月二十日頃には紫陽花が境内を埋め尽くします。

尾道白樺美術館(尾道大学)では、「絵を描き成す君よ」尾道に生きた女流画家平田玉蘊展と題して美術展と、尾道文化とその歴史に尽力された歴史家、故入船裕二先生の関連資料展示が開催されました。6月20日(日)には、玉蘊忌法要、「頼山陽と平田玉蘊」著者、池田明子先生と写真家村上宏治氏によるパネルディスカッション、尾道大学速水流茶道部による記念茶会も行われ、沢山の人に御参加頂きました。



お客様の声 (多くのお客様にご感想を頂きました。一部をご紹介致します)
「とてもゆっくりと楽しめる贅沢なお茶会でした。」 (尾道市)
「大寄せとは違った楽しみ方でできました。このような茶会も良いですね」(尾道市)
「爽賴軒庭園はとても綺麗で、お席もとても良かったです」 (三原市)
「次の回も楽しみにしています。是非続けて下さい」 (尾道市)
「待庵の写しはとても勉強になりました」(三原市)
「とても蒸し暑い一日でした。時候の良い時だともっと良い茶会になると思います。」(尾道市)

茶会アドバイザーとして
今回は、このような意味深いお茶会にアドバイザーとして参加のご依頼を受け、平田玉蘊顕彰会の皆様、関係者様に心より御礼申し上げます。微力ではございますが、今後も地域文化の発展に御協力できればと思います。いつの日か、げんこつ和尚、陣幕久五郎翁、浄土寺の源氏絵茶会を一斉に「尾道列伝大茶会」を開催できる日が来ると良いと思います。
                                          (有)越中屋 檀上博厚


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