陣幕久五郎翁は文政12年(1829)島根県東出雲に生まれ、幼名を槙太郎といった。19歳の時、尾道の初汐久五郎の弟子となり、四股名を「黒おどし」と名乗った。その後大阪に出て秀の山部屋に入った。
安政4年阿波藩のお抱え力士となり、「陣幕久五郎」と改名した。翌年不敗を誇っていた無敵の「不知火(しらぬい)」を破って、その名を天下にとどろかした。慶応3年39歳にして第12代横綱の免許を受けた。
陣幕はあだ名が「負けず屋」と呼ばれるほどの強剛無双の力士で、一度も「待った」をしなかったことでも知られている。明治36年東京で没したが妻と共に、白ひげを光明寺に葬った。墓前に自作の句「受けながら 風の押す手を 柳かな」の句碑と手形碑が建っている。

光明寺は、承和年中(834~847)、円仁和尚の草創といわれています。平安後期の作「浪分観音(国重文)」や尾道市最古の仏像「金銅観音(国重美)」が収蔵され、幕末期第12代横綱、陣幕久五郎の墓と手形があります。また境内下には地面を這うように枝を伸ばした「蟠龍の松(市天然記念物)」が有名です。
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